幸村の雪待日和

ゆきむらゆきまちのぶろぐ

ちんちんを読んだ

インテリぶる推理少女とハメたいせんせい In terrible silly show, Jawed at hermitlike SENSEI (HJ文庫)

インテリぶる推理少女とハメたいせんせい In terrible silly show, Jawed at hermitlike SENSEI (HJ文庫)

 

 

 

 某所にざっくりと吐き出して終わりにしようかとも思ったのだが、はてなでなるほどなあという感想を読んだのと、別の某氏になんか書けと言われたりしたのでこちらでも自分なりにまとめてみようかと思う。

 

「悲劇とは事件が起きることではない。何も起きないことこそが、悲劇なのだ」

 ――と西尾維新は書いたけれど、これはミステリというカテゴリの小説に関しては全く正しい指摘ではある。事件が無ければそもそもミステリも存在しないのだから。 

 以下は読了後最初にあげた感想である。

 掛け合いがスピーディに往復しつつ狭い世界観の中で認識を変化させていく様は西尾の化物語的でもあり、出自であるWeb小説(あるいはSS)的でもあるなあと思った。文章も薀蓄もけして凡庸ではなく、緊張感はさほどないものの終盤まで惹きつけて読ませる技量は流石だと思うが、肝心のオチがミステリとしてもラノベとしても中途半端――というか揺れを制御しきれていないように思った。余談だが略称はちんちんでいいと思う。

 この時点では正直あまり面白いとは思っていなかった。なんか最近の西尾と初期ユヤタンを混ぜたような文体とこじらせ具合だなあ、と思った程度である。

 しかし以下の記事を読んでから若干見方が変わった。

 2013-03-06 - 脳髄にアイスピック http://d.hatena.ne.jp/Lobotomy/20130306

 ただし、氏の捉え方と僕の捉え方は少々異なる――いや、括弧付きの「倫理」に対する捉え方が異なる、というべきかもしれない。

 僕はちんちんをあくまでミステリとして読もうとしていたのだが、これがHJ文庫で出ている以上、素直にラノベとして読めばいいのではないかと発想の転換を果たしたのだった。僕にとってのHJ文庫ウォーハンマーノベル(ジュヌヴィエーヴたん可愛い)であったりTOYJOYPOP(ラボたん鬼畜)であったりピクセルまりたん小説版(やや危険)であったりするのでロリコンの強姦魔が主人公であることとラノベであることは必ずしも矛盾しないのだが、Webをつらつら見る限りではそこで躓いている人が多いなーと思うし、それはそれで無理からぬことだろう。

 倫理を持ち出すと正しくないに決まっているのだが、だからこそ普通に恋と失恋の話として読まれてもよいのではないか、とは思うがそれが気持ち悪いというのは仕方ないことではあろう。 ただし、表層上の正しくなさとミステリとしてのある種の誠実さとの綱引きが終始行われているこの作品に、社会批評的何かを読み取るのは先日無事完結したガンスリンガーガールに社会批評を読み取るのと同じくらいポリティカルに正しく、それ故に醜悪だとも思う。

「正しくない物語」は何かの批評であって欲しい、という願望は正しくなさを愉しむことに対する後ろめたさからである(かもしれない)し、ガンスリ義体少女と大人の歪んだ恋愛としてハアハアすることに、あるいはちんちんを強姦魔と少女の恋愛未満の関係として読むことに多かれ少なかれ後ろめたさを感じざるを得ない括弧付きの「われわれ」はだからこそそこに批評性を見つけたがる (かもしれない)。

 気持ち悪い≒正しくない≒現実に存在してはならない は成立するが、気持ち悪い≒創作として存在してはならない、ではないとも某所の米とか見てると率直に思う。同時に、明確に正しくないものは創作にとどまらなければならず、作中で現実を批評するものとしてじかに現実に言及してしまうとそれは正しくなさによって盛大に炎上せざるを得ないだろうなあ、とも。

 明確に正しくないもの、の定義は時と所によって常に揺れ動くものだが、ちんちんやガンスリの邪悪さがナチSSや大日本帝国がヒャッハーする仮想戦記の邪悪さと比べて飛び抜けているわけでもないのでは、と(あくまで個人的には)思う。

 正しくなさゆえに叩かれる創作があるのなら、悲惨な現実から叙情や感動を搾取する類の創作はその正しさ故にもっと叩かれてもよい筈ではないかしらん、とも。

 

 ……盛大に脇道に逸れた気がするのでオチについての話にもどる。

 (ここから多少のネタバレあり)

 

 ――そう、オチが揺れているという話だ。ミステリとしては特筆すべきオチではない。中途半端、と称したのは、エピローグでどんでん返しがある、ということもなく、最終章より前に掛け合いの中でほぼ割られているものの確認と再演しかそこにはなく、トリックとしてはすでに一度可能性が示されているので意外性もとくにない、という点にあった。(トリックの定義にもよるが)その意味で、ミステリとしての倫理は道を外れていない、ごくまっとうなものであった、とも言えよう。この作品のミステリとしての価値は解決編ではなく解決が際限なく裏切られていく途上にこそある、と言ってもいいかもしれない。個人的には「匣の中の失楽」を少しだけ思い出したりもしたのだけれど――さておき。

 割れていないものはネタ以外の部分にあったのかもしれない、と今は思う。

 それは叙事(女児ではない)ではなく叙情に属するレベルの決着だ。その処理においては確かにオチている――落ちて、堕ちて、そして墜ちている。

 スマートで綺麗なオチではないし、必ずしも倫理的な決着であるとも言えない。あるいは醜悪と呼ばれる類の叙情かもしれない――しかし、それでも、それを描くこと自体が許されないような、そういう世界はいかにも窮屈ではないか。

(犯人の死、という決着自体は倫理的だが、倫理に忠実であるなら救済など必要ない、という視点に立てば極めて反倫理的であるとも言えよう)

 狭い世界の中で狭い世界観をやりとりした果ての結末は、喜劇のようでもあり悲劇のようでもあり――そして、少しだけ救われている。

 個人的には、そういう受け取り方をした作品だった。

 

 

※「hermitlike SENSEI」は「隠者(淫者?)のような先生」ではなく、あるいは「隠された宣誓」であったのかもしれない、とか――そんな腐れロマンチシズム。