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幸村の雪待日和

ゆきむらゆきまちのぶろぐ

あくせられいてっどりはびりてーしょん

個人的なメモ。

 

 ゲーム、あるいは小説や漫画においてデミウルゴスである主人公を仮想する。

 彼が最終的に何を達成し何によって救われるだろうか、と考えたとき。

 彼を救うのはプレイヤー(あるいは読者)なのか物語自身(あるいは作者)なのか。

 

 世界に完全な物語と不完全な物語がもし存在するとしたら、不完全さを救うのは誰の意志なのか。そもそも完全な物語など存在するのだろうか。

 完全さには悲痛がつきまとう――かもしれない。また、完全さを志向して失敗すると悲惨なことになるかもしれない――が、コントロールされた不完全さは最初からプレイヤーや読者の補完を当て込んでいるので破綻に至らずにすむかもしれない。リソースが有限である以上、全方向に完全であることは出来ないのでゲーム性や作者にとって重要でないところは省かれたりする。

 ソーシャルゲームやカードゲームにおいてしばしば物語は断片化されている。ゲームのフレーバーテキストに限らず、こうした断片化された物語に良い所があるとすればそれは最初から完全であらねばならないという呪縛から解き放たれていることだろう。特に課金を必須とするソ-シャルゲームの類は常に流動し続け完全性やコンプリートへの欲望を拒否するところがあり、むしろ断片化された状態こそが好ましいものとして受け入れられているように思える。逆に言えば、完全な物語やコンプリートへの欲望が強すぎる人間はおそらくソーシャルゲームに向いていない。妥協と諦観を受け入れた上でどこを目指すか、という目標設定のもとに愉悦が生じるのだから。

 完全な物語への希求にも、おそらく同じことが言える。

 さて、断片化されているにしろそうでないにしろ、不完全さは補完を必要とする。

 ここでプレイヤーや読者は読解や想像(妄想)によって補完を行うわけだが、このときに作者より進んだ読解を行うことも可能性としては勿論あり得る。それもまた補完にすぎないとは言え、そこから完全な物語に至ることも無いとは言えないだろう。しかし、それは殆どの場合当事者にとってのみ意味を持つ完全さに留まる。

 デミウルゴスである主人公の話に戻る。

 正しさを作品からも物語からも切り離して主人公の在り方や解釈に求める行為は個人の信仰告白にすぎないが、しかしとあるゲームや物語に対して個々人の理解度に差があるのは当然でもあるので、より理解度の深い読者の解釈により他の人間が気付きを得られるのも間違いではない。しかしそれがより正しいと定める事は出来ない。なんとなれば、作者としてあるいは読者としてのデミウルゴスはそこにある物語の彼が思う正しさを補強しようとして補完を行うのであり、主人公としてのデミウルゴスと対立することすらあり得るからだ。つまりここでは作者や読者は主人公に成り代わって物語における偽神の座を占めようとする存在なのである。

 それを作者や読者はあるいは救済と呼ぶかもしれない。

 しかし、そもそもそれは誰のための救済なのだろうか。

 デミウルゴスである主人公は不完全な物語において自己を生成する。そしてそれはしばしば作者(≒物語)や読者(≒プレイヤー)の想定を超える。

 例えば――フランケンシュタインの怪物は誰のためでもなくただ自らのために存在する。怪物が世界を築くことに成功していたら、彼はヴィクターに成り代わって新たなデミウルゴスとなっていたろう。いや、現実世界において彼はすでに創造者たるメアリー・シェリーも物語上のデミウルゴスたるヴィクターも超え、己自身の物語を持つアイコンとなりおおせた。それは沢山の新たな読者や作者の補完の結果でもあるが、同時に彼自身の強靭さがアイコンを生成したとも言えよう――

 

 とりあえずここまで。結論はいまのところない。