幸村の雪待日和

ゆきむらゆきまちのぶろぐ

混淆世界ボルドーのすすめ

 

 わたしが多大な影響を受けた作品の一つである「混淆世界ボルドー」。

 1、2巻が復刊されたのがもう数年前のことになりますが、その後色々と再始動されたとのことで。

 

ABOUT - BOLDOR:APOCRYPHAボルドー戦録外典ー http://boldorcp.tumblr.com/about

 

 公式ファンブックの刊行に続き外伝も同人で刊行されており、かつてのファンにとっては買うしか無いという代物になっております。先般の冬コミでは「キャンダー編」の前編が頒布されました。

 もちろん、ボルドーは懐古に頼るだけの作品ではありません。

「異世界転生者が魔法を駆使する巨大ロボットに乗って闘う」

 昔も今もこのフレーズに魅せられる者は多いはず。

 市川先生の描く重厚な物語と圧倒的な画に、ぜひ新たな読者も没入して頂ければ、一人のファンとしてこれにまさる喜びはありません。

 ぜひ。

 

あけまして

 おめでとうございもす。

 今年もよろしくお願い致します。

 去年はとくに変わったこともなくソシャゲやったりしてました。

 今年もあんまり変わらないような気がしますが。

 

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 FGOはこんな感じになってます。

 年明けの福袋でジャックちゃんが来ました。ありがとうありがとう。

 グラブルもややペースは落ちましたがぼちぼち。

 アンチラは来なかったけどマキラは来てくれました。

 FGOはストーリーも良く戦闘も面白いので年末からの流れで新しく始める人も増えているのはめでたいことだとは思うのですが、UI回りとかの不親切さはあまり改善されていない(これでもだいぶ良くはなったけれど)ので、新規参入プレイヤーにとってはストレスになる部分も結構あるのではないかなあと思います。

 ソシャゲなんて苦痛に耐えてやるものではないので、わからないことは積極的に聞いてストレスを減らしていくのがいいとは思いますが、世の中には他人に聞く事自体がストレスになるという人もけっこう居るので運営にはもうちょっとユーザーフレンドリーなUIやヘルプをお願いしていきたいところではあります。

 艦これもそうですが、ゲーム内だけで攻略情報が完結しないというのはソーシャルのいいところでもあり悪いところでもある、というのは常々感じるところです……

 

 そんな感じでとりあえず。今年もぼんやりぼちぼち生きていくよ。

 

 

 

 

FGOとか

しばらく文章らしきものを書いていなかったのでリハビリを兼ねて。

 

ソシャゲは相変わらずグラブルとFGOを中心にやっている。

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FGOの主だった戦力はこんな感じ。できれば玉藻や孔明を加えたい。

お気に入りはヴラド公と天草。ジャンヌオルタは欲しかったが来てくれなかったよ……

ソシャゲに時間を取られているなあとは思うのだがさりとて空いた時間に他のことをする気力もあまり無いので良くないなあという感じではある。

 

 

旅に出たい。

 

 

ソシャゲのあれこれ

 

現在プレイしているのは四作品ほどです。

他、ログインだけはしてる作品も同じくらい。

 

今回、それぞれについて思うところをメモを兼ねて書いておくことにしました。

 

昨年から引き続き。もう少しでランク100になろうかというところ。

課金はそれなり、進行度もそれなりというところでしょうか。

最近やっとグランデちゃんを3凸できました。

ハロシャルで爆死したのでしばらくガチャはやりたくないです。

今欲しいのはハロシャル以外だとミニゴブ、ナルメアお姉ちゃんあたり。

グラブルの魅力はキャラやジョブの豊富さもさることながらパーティの編成自由度がそれなりに高く、手持ちの駒によって様々なやり方が楽しめることでしょうか。高レベル帯ではある程度定番の戦略があるものの、それ一択というわけではないのでお気に入りのキャラをずっと使っていくこともけして不可能ではありません。

イベントのストーリーは良かったりそうでもなかったりですが特に不満は感じていません。カツウォヌスとかキノコをひたすら狩ってると飽きるのは否めませんが。

 

タイプムーン作品の豊富な設定を活かした背景世界と、奈須きのこ東出祐一郎桜井光などの実力派ライターによる物語が魅力的なソシャゲー。

やや独特な戦闘システムはいわゆるRPGとカードバトルの折衷的な部分があり、当初はヘルプやUIの不親切さとあいまって個人的にはどうよという感じだったのですが、慣れてくるとなかなか常に緊張感を強いられてたのしいです(白目

手持ちのサーヴァントは戦闘では一部のパラメータを除き成長しないため、レベルアップのためにはひたすら素材を食わせる必要があります。二次創作のセイバーさんみたいですね。ぶっちゃけると素材集めは全部だるいです。戦闘に緊張感があるのが悪いほうに出ていますね。その代わりといっては何ですがストーリーやイベントのテキストは全体的によくできていると思います。

 

音ゲー・リズムゲーは全般的に苦手なのですが、それなりに楽しんでいます。

今のところレギュラーまでしかまともにクリアできませんが。

最初にSSRらんらんを引いたので今のお気に入りは蘭子です。

 

最近はじめてみました。3Dモデルのキャラがとにかくかわいいです。

戦闘はほぼ見てるだけ、のポチポチゲーなのですが、アクションがかわいいのと動作が軽いのでストレスなくプレイできています。何かの合間に触るには最適、という意味では怪盗ロワイヤルとか神撃のバハムートとかのポチポチゲーの正統進化なのかなあという気がします。やりこみ要素がもう少し増えてくるとゲーム的には良いのかもしれないですが、一方ではずっとこれくらいの気楽さでいいような気もします。

お気に入りはミスティ、リタ、ジェナあたり。

 

上記以外ではハースストーンとかも触ってはいますが続けるかどうかはわかりません。

いずれにせよ時間を取られすぎないようにしたいですが、グラブルもFGOも真面目にやろうと思うとやたら時間を食うので辛いです先生。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

近況

ぱそこんが壊れたり

数年ぶりに結石が出たり

あとぴーがきつかったり

水着ダヌアがでなかったり

もろもろの結果として金欠だったりしますが

わたしはげんきです。

 

 

てすと

PCがお亡くなりになったぽいのであいぱっよから更新してみんとす。

変換が結構おもたいので文字数多い記事は難ありかなあ。

 

あくせられいてっどりはびりてーしょん

個人的なメモ。

 

 ゲーム、あるいは小説や漫画においてデミウルゴスである主人公を仮想する。

 彼が最終的に何を達成し何によって救われるだろうか、と考えたとき。

 彼を救うのはプレイヤー(あるいは読者)なのか物語自身(あるいは作者)なのか。

 

 世界に完全な物語と不完全な物語がもし存在するとしたら、不完全さを救うのは誰の意志なのか。そもそも完全な物語など存在するのだろうか。

 完全さには悲痛がつきまとう――かもしれない。また、完全さを志向して失敗すると悲惨なことになるかもしれない――が、コントロールされた不完全さは最初からプレイヤーや読者の補完を当て込んでいるので破綻に至らずにすむかもしれない。リソースが有限である以上、全方向に完全であることは出来ないのでゲーム性や作者にとって重要でないところは省かれたりする。

 ソーシャルゲームやカードゲームにおいてしばしば物語は断片化されている。ゲームのフレーバーテキストに限らず、こうした断片化された物語に良い所があるとすればそれは最初から完全であらねばならないという呪縛から解き放たれていることだろう。特に課金を必須とするソ-シャルゲームの類は常に流動し続け完全性やコンプリートへの欲望を拒否するところがあり、むしろ断片化された状態こそが好ましいものとして受け入れられているように思える。逆に言えば、完全な物語やコンプリートへの欲望が強すぎる人間はおそらくソーシャルゲームに向いていない。妥協と諦観を受け入れた上でどこを目指すか、という目標設定のもとに愉悦が生じるのだから。

 完全な物語への希求にも、おそらく同じことが言える。

 さて、断片化されているにしろそうでないにしろ、不完全さは補完を必要とする。

 ここでプレイヤーや読者は読解や想像(妄想)によって補完を行うわけだが、このときに作者より進んだ読解を行うことも可能性としては勿論あり得る。それもまた補完にすぎないとは言え、そこから完全な物語に至ることも無いとは言えないだろう。しかし、それは殆どの場合当事者にとってのみ意味を持つ完全さに留まる。

 デミウルゴスである主人公の話に戻る。

 正しさを作品からも物語からも切り離して主人公の在り方や解釈に求める行為は個人の信仰告白にすぎないが、しかしとあるゲームや物語に対して個々人の理解度に差があるのは当然でもあるので、より理解度の深い読者の解釈により他の人間が気付きを得られるのも間違いではない。しかしそれがより正しいと定める事は出来ない。なんとなれば、作者としてあるいは読者としてのデミウルゴスはそこにある物語の彼が思う正しさを補強しようとして補完を行うのであり、主人公としてのデミウルゴスと対立することすらあり得るからだ。つまりここでは作者や読者は主人公に成り代わって物語における偽神の座を占めようとする存在なのである。

 それを作者や読者はあるいは救済と呼ぶかもしれない。

 しかし、そもそもそれは誰のための救済なのだろうか。

 デミウルゴスである主人公は不完全な物語において自己を生成する。そしてそれはしばしば作者(≒物語)や読者(≒プレイヤー)の想定を超える。

 例えば――フランケンシュタインの怪物は誰のためでもなくただ自らのために存在する。怪物が世界を築くことに成功していたら、彼はヴィクターに成り代わって新たなデミウルゴスとなっていたろう。いや、現実世界において彼はすでに創造者たるメアリー・シェリーも物語上のデミウルゴスたるヴィクターも超え、己自身の物語を持つアイコンとなりおおせた。それは沢山の新たな読者や作者の補完の結果でもあるが、同時に彼自身の強靭さがアイコンを生成したとも言えよう――

 

 とりあえずここまで。結論はいまのところない。