幸村の雪待日和

ゆきむらゆきまちのぶろぐ

特攻精神とリセット願望の幸福な結婚

 あるいは悪魔合体としての魔法少女まどか☆マギカ

 

 去年のうちからいろんな人が思いついていたであろう与太ではあるのだが、なんとなく敢えてそのまんまの形で吐き出すのははばかられるような雰囲気があって気がついたらこんな時期になっていた。しかし、今になって振り返ってみると、当時作られた作品としてあまりにもタイムリーだったからこそここまで引っ張られるような存在になったのだろうなあ、と改めて思ったりもするので、まあいい頃合いなのかもしれない。

 めだかボックス、≠編の結びにおける人吉善吉の叫びは、ある意味で上記のような結婚を尊いものとしもてはやす風潮に冷水を浴びせるものだったかもしれない(ただし、それは自らの作品世界をも卓袱台返しする危険を孕む行為でもあったが)。

 ジャンヌ・ダルクはそりゃ魔女と呼ばれるよりオルレアンの聖女と呼ばれるほうが死後の世界では幸せに思ってるかもしれないが、でも結局生きてるときは最後火あぶりで終わったじゃないのさ生きてるときに救えよおかげでキャスターさん狂っちゃったじゃないさ、とかそんな感じ、と言えば伝わるだろうか――いや、この線はやめよう。

 

 ――例えば。

 福島で今も働く原発作業員を生贄として賞賛しつつ哀れみ、しかし彼らへのサポートより政策無き原発停止、反原発を優先させしかもそれを正義と任じて恥じない輩。

 世界のリセットを望みながら、自ら手を汚すことには耐えられず、故にだれかがそこに特攻してくれることを望んでやまない輩。

 そういう人間は多くはないかもしれないが存在する。

 彼らにとって、まどマギのようなお話はきっと美しい自己犠牲と救済の物語に見えるのだろう。クソである。

 僕はまどマギは虚淵玄が関った作品の中では一番好きだが、それでも上記のようなものとして捉えることは到底出来ない。

 かの作品における救済はあくまで限定的、個人的なものであり、世界を救ったりはしない。

 それぞれが価値を見出す世界は、それぞれが闘争の果てに全うするしかない――そういう極めて人間的な、悪く言えば夢のない、よく言えば地に足のついた結論しか、虚淵玄の物語には用意されてはいない。

 それを尊いものとするのは構わないと思う。僕だって魔法少女たちの生き様は賞賛に値すると感じる。だが、それは節電に不平を唱える同じ口で反原発を唱え、子供の被曝を恐れると述べる同じ口で避難者を差別するような連中を救うための物語ではない。であるにもかかわらず、彼らを救うために犠牲になってくれるような存在を求める心性をまどマギのような物語が引き受けているという状況がある。

 たまたままどマギを例とする形になったが、こうした状況は別の作品にも見られる。震災より前に造られたものが同時代性により新たな受容のされかたで読まれる、というだけでなく、震災のあとは上記のような犠牲の精神を称揚するために組み立てられた物語も濫造されている――まあ、作品として優れていれば、それも構わないのだろう。ただそれだけしかない、というのは勘弁願いたいものだが。

 

 まあ、そんな感じで。