幸村の雪待日和

ゆきむらゆきまちのぶろぐ

文体の速度について

天体の運行について的な何か、ではない。

 

 例えば小説、あるいはノベルゲーでもよい。

 とある作家の文体が特徴的で、それゆえに毀誉褒貶が激しいとしよう。

 貶す人は下手くそで読んでられないという。

 褒める人はこれこそが病みつきになる素晴らしさなのだという。

 評価はいずれにしてもいつだって食い違うものだが、さてそれは果たして技量の違いや好みだけによる食い違いなのだろうか。

 

 例えばとあるロックンロールの曲を考えてみると、歌詞やメロディなど様々な評価軸がもちろんあるわけだが、見過ごされがちでありながらその実評価に大きな影響を与えるパートがある。リズムパートである。

 曲に対してジャストであればまあ不快感はもたらさないだろう。始終走ったりモタったりして不安定なら当然不快だろう。しかし、演奏のテンポ自体はほぼジャストでもドラムだけを前ノリ、後ノリという形でわざとずらす場合もあったりする――そして、どれを好むかというのは曲自体とそのリズムの相性もさることながら、視聴者の好みにも大きく左右されがちだ。

 文体のリズム。テンポと言い換えてもよいが、このテンポというのは文章の中身の速度と、文体それ自体の速度と二種類が存在する。それは情報量の違いであったりあるいは物語の速度自体の違いであったりするが、とにかく両者は常に一致しているとは限らない。で、一致していないからといってそれが即下手くそであるとは限らない――こうした感覚はロックンロール曲におけるリズムパート(別にロックでなくてもいいのだが)に対して受ける感覚と似ている、のではないだろうか?

 それは読者の読み進める速度、物語を把握する速度、そして快感を感じる速度――読者にそれぞれにおいてシンクロを要求してくる。ノベルゲーにおいてはある程度読者が速度をコントロールすることも可能だが、紙に書かれた小説においては基本的には読者が文体の速度に合わせることを強いられる――ゆえに、紙に書かれた状態では、特殊な速度を持つ文体はより毀誉褒貶に晒される可能性がある――とは言えるかもしれない。

 で、ここからは個人的な感覚による感想になる。

 僕はもともとファンタジー小説の呪文とかそういうのが好きな子供だったので、バスタードの呪文とかエルリック・サーガの呪文とかエルフの歌とか喜んで覚えていたアレな子供だったのだけど、いわゆる韻文・美文的な定型文による呪文というのはたくさん見ているとどうしても飽きてくる、という感覚は当時からあったと思う。定型に従えば従うだけ、バリエーションは枯渇していくのだからまあ当然とは言える。

 当時からそれを打破しようとする試みはファンタジー小説やラノベの中でも見られた。スレイヤーズ→オーフェンといった流れは定型の中でいかに格好良さを追求するかという試みであったと思うし、バスタード以後のファンタジー漫画――例えば岡田芽武の作品などではその試行錯誤がある程度の実を結んでいると言えるだろう。

 小説においても、ソード・ワールド世界のパロディである「コクーン・ワールド」のシリーズでの呪文の扱いなどのように大仰な呪文それ自体を「時代遅れ」にしようという試みは見られたし、海外の現代ファンタジーなどでも似たような例は探せばあるだろう。(例えばPC版ウィザードリィが単語を全部入力しなくてもティルトウェイトならTを入力すれば認識してくれる、みたいなシステムを格好良いと思うような――そんな感覚、と言えば伝わるだろうか?)

 で――ここでようやく奈須きのことかそのへんの話。

 ミステリ・伝奇の畑でも文体の速度と物語の速度――というのはいろいろ試行錯誤がされていたと思う。例えば清涼院流水上遠野浩平西尾維新は物語を加速したと言えるだろうし、舞城王太郎はさらにミステリという文脈に囚われず文体そのものを加速したと言ってもいいだろう。

 奈須きのこはどうか。

 有名な「Unlimited Blade Works」のアレ。きのこ節(?)の象徴のように扱われるあの詠唱だが、ぶっちゃけ一般的な文章のリズムとしては全く格好良くない。しかし、アレが格好良く感じた人間が非常に沢山いた(今もいる)というのは紛れも無い事実である。では、彼らはどこに格好良さを感じたのか――受信したのか。

 あれがもともとノベルゲーのテキストである、というのはここでは当然大きな意味を持つだろう。読者は自分で読みすすめるリズムを調節できる――調整できる。

 クリックのたびに立ち止まって噛み締めてもよいし、熱情に浮かされるまま読み進めてもよいのだ。そういう読まれ方に適したごつごつした異物感――引っ掛かりをかのテキストは備えていた――そう言えるかもしれない。つまりそれは読み飛ばすことを許さない存在感であり好き嫌いにかかわらず認識せざるを得ない奈須きのこという文体の速度だったのだ。その異物感をこそ今までの流暢な韻文調の呪文だの何だのとの違い――優越性として捉えた読者もきっと居たのではないだろうか?

 まあこのへんは憶測なので、それは全く違うよ!と言われればおとなしく頭を垂れるほかはないのだが――あくまで個人的な感覚に従って言えば、僕はその異物感ゆえに格好悪いと思う――しかし格好悪いと思った人間がいるなら必ずその逆もいるはずなのだ。 

 以下は蛇足となるが、文体の速度が特徴的な作品――あるいは舞台を一つ、最近のものから挙げてみるとしよう。それは他ならぬニンジャスレイヤーであり、あるいは2chのいくつかのスレッドやツイッターのTLに見られるような連続的な投稿の集積である。

 周知のように忍殺はツイッターにおいてまず発表されているわけだが、その文章はいわゆる原作(原文)がある(とされる)作品であるにもかかわらず、140字というツイッターの縛りに極めて最適化された形でアップされている。勿論、そこにはほんやくチームの大変な苦労が存在するものと察するけれど――しかし、実際文末にしばしば置かれる「タツジン!」だの文頭におかれる「ゴウランガ!」だの、あるいは一つのポスト全てを埋め尽くす「イヤーッ!」「グワーッ!」とかを眺めていると、これは原文がどうあれ明らかにツイッターでのリアルタイム投稿、というスタイルに合わせた文章に上手く構成されているなあと感心するわけで、改めてほんやくチームの技量に様々な意味で舌を巻かざるを得ない、というのが正直なところである。

 また、2chやツイッターにおいて最近よく見る(自分も実際よく使う)ポストの末尾に括弧書きで短い総括(しばしばタグ的な何かでもある)を付与するスタイルがある。(小並感)とか(難聴)とかはとあるスレではよく目撃するし、TLでも似たような光景はよく目にする。それは総括でもあり同時に定型の決まりきった返しでもあるのだが、同時に流れの前後を把握していない人間がそのスレやTLに飛び込んできても、どういう種類のポストかを(ある程度は)示す役割をも果たしている。

(マジレス)とか(暗黒微笑)とか昔から使われているそれもまあ似たようなものだが、ではそれは何のために必要とされているのか――と考えたとき、それは140字に圧縮されたポストの速度、流れていくTLの、スレの速度に乗りつつ、乗れていない人間にも配慮するという無意識の気遣いなのかもしれない、と思ったりもする。

 懇切丁寧に自分の意見を説明するポストにはそういったものは必要ではない。しかし、チラシの裏に書きなぐったような感想でも、そのまま放流すると誤解の余地がありすぎるようなそんな時には、そういったちょっとしたカッコ書きの付与も役に立ったりするかもしれない――まあ、誤解する人は何を書いても誤解するものだけど、それがオープンな場で意見を表明するということなのだから、それは仕方ない。しかしリスクを減らせる範囲では減らしておきたい――そんな心理が僕に、そしてTLやスレにおける誰かに括弧書きの追加をさせるのかもしれない。

 最初のほうの話と無理やり組み合わせるなら、これは文体の速度を無視して物語だけが勝手に加速させられていく例であり、投稿者は物語の速度をコントロール出来ない状態におかれるがゆえに、事前に文体によって――あるいは付記によって物語の固有速度を設定する必要に迫られる――そう言い換えることも可能だろう。

 

 うん、なんとなくまとまったっぽい(小並感