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幸村の雪待日和

ゆきむらゆきまちのぶろぐ

集合知あるいは集合痴

 上記によって形成された場から成果物を得ようとするとき、得ようとする者はしばしば「まとめ」「要約」し「結論を導こうとする」。

 しかし、集合知の場というのはそもそもまとめても要約しても意味が失われてしまうからこそ場として価値あるものたりえるという事実――あるいは状況を、成果物を性急に得ようとする者は見落としがちだ。それ故、彼らはしばしば成果を「盗み」「掠め取り」「歪め」「私利私欲に利用した」と非難される。その非難は正しいときも正しくないときもあるが、しかしはっきり正しくないと言えるのは上記のような前提を忘れてしまうこと、あるいは知っていながら居直ることだろう。

 

――カオスラウンジ騒動やら坂上某やらを見ていると、そんなことを思ったりしなくもない夕暮れ。

 

 さておき。

 そもそもそうした集合知の場というのは基本的に閉鎖的である、ということもある。上澄みだけ見ていると透明性の高い空間も、その下には純度の高い怨念であったり渇望であったりが隠れていることが多く、それ故彼らは新参者に厳しい。(それはどんなマニアックなコミュニティでも同じだとは思うが)

 彼らが新参者に厳しいのは、上記のような果実だけを得ようとする者やコミュニティの発展ではなく殲滅のために利用する者、軽々しく扱ってサークル自体を期せず崩壊に導く者――そういった彼らにとっての異物をさんざん見てきたからでもある。

 内部にも外部にも是非は問えない。そもそも、サブカルであれなんであれ、娯楽やらアートやらに正しさを要求すること自体が筋違いなのだ――しかし、さりとて成果物を利用しようとするときも正しい利用法など存在しない、とはならないだろう。

 場に対する敬意とかリスペクトとか、そういう見えづらい、かたちの無いものでしか支払えないコストが存在する。コストを支払っていることを証明するには、まず自分もその一員であること、内部に居ることを示さねばならない。「外部から」何かを得ようと働きかける限り、その人はそのコミュニティに受け入れられることはない。

 

 そんなに難しいことではない。

「わたしは、これこれこういうものが好きです。こういうものに興味があるので、だれかがまとめてくれたらいいなと思います」

 ではなく。

「わたしは、これこれこういうものが好きです。これに関してはこうだと思うのですが、あなたはどう思いますか」

 それだけでいい。

 

 コストを払うというのは、自分の嗜好を、思考をさらけ出すこと。

 人の思考が連鎖するとっかかりを与えること。

 当然、反論も反発もあるだろう。

 しかし、自分の意見を、立場を明らかにしない人に、だれが意見を、立場を表明したいと思うだろうか。

 友人や知人なら、教師や先輩なら優しく、あるいは厳しく諭してくれるかもしれない。しかし、自分というものを知らない他人にとっては、その発言が全てなのだ。

 だから、他人から何かを得たければ、まず言葉によってコストを払わねばならない。

 坂上某やカオスラウンジの人間はその才能あるいは無能に応じたコストを払い、好評悪評含めそれなりの評価を得た。少なくとも、彼らは立場を、意見を明らかにした。成果物の質がどうあれ。

 そういうことだと思う。

 

 この記事は正しくもないし最適でもない。

 ただの、老婆心の表明であり老害の感想にすぎない。

 とある話に、コストを払ってもよいと感じた、それだけの話だ。