めだかの学校――めだかボックス完結に寄せて
ここしばらくの間一番興味深く読んだ作品、ということもあり何か書いておこうかとも思ったのだが、正直なところ全て作品内で言い尽くされているような気はしないでもない。しかし、それが読者へストレートに受容されたか、という点にはいささか疑問が残るので、その点には多少なりと触れておきたい。
――いわゆる週刊少年ジャンプの一般的な読者とのミスマッチが最後までこの作品にはつきまとっていたように見え、それが西尾ファンとしてはもどかしく写ったのは確かだ。(それもまた西尾維新と暁月あきらにとっては織り込み済みの反応ではあったかもしれないが)
ジャンプ漫画をメタ化――それも一部の読者にとっては「茶化している」と映るような手法で(個人的にはあれほど愛あるメタ化はそうないと思うのだがそれはさておき)しつつ、なおそれを基礎としてジャンプ漫画の王道に忠実なレールを走りぬいた作品――それがめだかボックスという漫画である(と思う)。
それを彩る材料として西尾は自身の「戯言シリーズ」「人間シリーズ」「きみぼく」「ぶきそぼ」といった過去作からいくつかのキャラクターと彼らが抱えるテーゼを移植――いや、アップデートして持ち込んでいる。言うまでもなくめだかちゃんは時と所を変えた哀川潤だが、彼女について過去作では触れて来なかった部分(「哀川潤の失敗」などで触れていくのかもしれないが)を少年誌に合うような形で掘り下げたのがそのまま黒神めだかの歩みだったとも言えるだろう。
当然ながら、めだかちゃんだけではジャンプ漫画として完成するには足りなかった。だからこその人吉善吉である。異能とイレギュラーの集合体であるめだかのカウンターパート――善吉は作品内においては異分子であり、それ故に「ジャンプらしい」主人公たる資格を得るのだ。
と、ここまで書いたところで筆が止まった。
気が向いたら続きを書く。多分、球磨川禊と安心院なじみについて。
ともあれ、とりあえず。
西尾先生&暁月先生、ありがとうございました。
FSS再開とか
読みました。
わははははははは(歓喜
何はともあれめでたいとしか。
もばます その8
キュートでとりあえず揃えてみた現行フロント。
攻コスト40%の範囲内での発揮値をもうちょい上げるのがとりあえずの目標になるかなー、とか。
今後なんか大きめのを引かない限りはこの辺で頭打ちかしら。
ちんちんを読んだ
インテリぶる推理少女とハメたいせんせい In terrible silly show, Jawed at hermitlike SENSEI (HJ文庫)
- 作者: 米倉あきら,和遥キナ
- 出版社/メーカー: ホビージャパン
- 発売日: 2013/02/28
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某所にざっくりと吐き出して終わりにしようかとも思ったのだが、はてなでなるほどなあという感想を読んだのと、別の某氏になんか書けと言われたりしたのでこちらでも自分なりにまとめてみようかと思う。
「悲劇とは事件が起きることではない。何も起きないことこそが、悲劇なのだ」
――と西尾維新は書いたけれど、これはミステリというカテゴリの小説に関しては全く正しい指摘ではある。事件が無ければそもそもミステリも存在しないのだから。
以下は読了後最初にあげた感想である。
掛け合いがスピーディに往復しつつ狭い世界観の中で認識を変化させていく様は西尾の化物語的でもあり、出自であるWeb小説(あるいはSS)的でもあるなあと思った。文章も薀蓄もけして凡庸ではなく、緊張感はさほどないものの終盤まで惹きつけて読ませる技量は流石だと思うが、肝心のオチがミステリとしてもラノベとしても中途半端――というか揺れを制御しきれていないように思った。余談だが略称はちんちんでいいと思う。
この時点では正直あまり面白いとは思っていなかった。なんか最近の西尾と初期ユヤタンを混ぜたような文体とこじらせ具合だなあ、と思った程度である。
しかし以下の記事を読んでから若干見方が変わった。
2013-03-06 - 脳髄にアイスピック http://d.hatena.ne.jp/Lobotomy/20130306
ただし、氏の捉え方と僕の捉え方は少々異なる――いや、括弧付きの「倫理」に対する捉え方が異なる、というべきかもしれない。
僕はちんちんをあくまでミステリとして読もうとしていたのだが、これがHJ文庫で出ている以上、素直にラノベとして読めばいいのではないかと発想の転換を果たしたのだった。僕にとってのHJ文庫はウォーハンマーノベル(ジュヌヴィエーヴたん可愛い)であったりTOYJOYPOP(ラボたん鬼畜)であったりピクセルまりたん小説版(やや危険)であったりするのでロリコンの強姦魔が主人公であることとラノベであることは必ずしも矛盾しないのだが、Webをつらつら見る限りではそこで躓いている人が多いなーと思うし、それはそれで無理からぬことだろう。
倫理を持ち出すと正しくないに決まっているのだが、だからこそ普通に恋と失恋の話として読まれてもよいのではないか、とは思うがそれが気持ち悪いというのは仕方ないことではあろう。 ただし、表層上の正しくなさとミステリとしてのある種の誠実さとの綱引きが終始行われているこの作品に、社会批評的何かを読み取るのは先日無事完結したガンスリンガーガールに社会批評を読み取るのと同じくらいポリティカルに正しく、それ故に醜悪だとも思う。
「正しくない物語」は何かの批評であって欲しい、という願望は正しくなさを愉しむことに対する後ろめたさからである(かもしれない)し、ガンスリを義体少女と大人の歪んだ恋愛としてハアハアすることに、あるいはちんちんを強姦魔と少女の恋愛未満の関係として読むことに多かれ少なかれ後ろめたさを感じざるを得ない括弧付きの「われわれ」はだからこそそこに批評性を見つけたがる (かもしれない)。
気持ち悪い≒正しくない≒現実に存在してはならない は成立するが、気持ち悪い≒創作として存在してはならない、ではないとも某所の米とか見てると率直に思う。同時に、明確に正しくないものは創作にとどまらなければならず、作中で現実を批評するものとしてじかに現実に言及してしまうとそれは正しくなさによって盛大に炎上せざるを得ないだろうなあ、とも。
明確に正しくないもの、の定義は時と所によって常に揺れ動くものだが、ちんちんやガンスリの邪悪さがナチSSや大日本帝国がヒャッハーする仮想戦記の邪悪さと比べて飛び抜けているわけでもないのでは、と(あくまで個人的には)思う。
正しくなさゆえに叩かれる創作があるのなら、悲惨な現実から叙情や感動を搾取する類の創作はその正しさ故にもっと叩かれてもよい筈ではないかしらん、とも。
……盛大に脇道に逸れた気がするのでオチについての話にもどる。
(ここから多少のネタバレあり)
――そう、オチが揺れているという話だ。ミステリとしては特筆すべきオチではない。中途半端、と称したのは、エピローグでどんでん返しがある、ということもなく、最終章より前に掛け合いの中でほぼ割られているものの確認と再演しかそこにはなく、トリックとしてはすでに一度可能性が示されているので意外性もとくにない、という点にあった。(トリックの定義にもよるが)その意味で、ミステリとしての倫理は道を外れていない、ごくまっとうなものであった、とも言えよう。この作品のミステリとしての価値は解決編ではなく解決が際限なく裏切られていく途上にこそある、と言ってもいいかもしれない。個人的には「匣の中の失楽」を少しだけ思い出したりもしたのだけれど――さておき。
割れていないものはネタ以外の部分にあったのかもしれない、と今は思う。
それは叙事(女児ではない)ではなく叙情に属するレベルの決着だ。その処理においては確かにオチている――落ちて、堕ちて、そして墜ちている。
スマートで綺麗なオチではないし、必ずしも倫理的な決着であるとも言えない。あるいは醜悪と呼ばれる類の叙情かもしれない――しかし、それでも、それを描くこと自体が許されないような、そういう世界はいかにも窮屈ではないか。
(犯人の死、という決着自体は倫理的だが、倫理に忠実であるなら救済など必要ない、という視点に立てば極めて反倫理的であるとも言えよう)
狭い世界の中で狭い世界観をやりとりした果ての結末は、喜劇のようでもあり悲劇のようでもあり――そして、少しだけ救われている。
個人的には、そういう受け取り方をした作品だった。
※「hermitlike SENSEI」は「隠者(淫者?)のような先生」ではなく、あるいは「隠された宣誓」であったのかもしれない、とか――そんな腐れロマンチシズム。
STARDRIVER THE MOVIEとか
スタードライバー THE MOVIE http://www.stardriver-movie.net/
観てきた。
2時間強という長尺の総集編であり、流石に見た後は若干の疲労が残る。
ただ、この長さでも短い!もっと見たい!と思わせるだけのボリュームがもともとこの作品にはあるわけで、TV版の内容全てを網羅するところまでは無理だったものの、しかしそれも仕方ない、と思わせる出来にはなっていると思う。冒頭や最後の新作パートも素晴らしいし、再編集されたお話も新規パートや台詞によってほぼ違和感なく繋げられているので、TV版を知らない人にこそむしろ見て欲しい劇場版だと思う。
また、全編を通じて、シーンの繋ぎかたや台詞によってワコ・スガタ・タクトの関係における心の動きがよりわかりやすく整理されていたと感じたので、そこも良かったと思いましたまる。
以下、少しだけネタバレ。
※サカナちゃんかわいい。
※頭取がほぼ空気。かなしい。
※ミドリ先生はプチ勝利。
※バニシングエイジのドライバーたちは出番なし。ちかたないね。
※ケイトのアレは割愛。(巫女の歌は四人ともしっかりあるが)
※神話前夜どこー?
※人生という冒険は続く。
まあ、そんな感じだったけれど、総じて大満足。
二期とかあれば嬉しい気もするけれど、一方であれが締めでもそれはそれで美しいなあと思ったりもするのだった。
TV版のときも、そう思っていたように。
めもらびりあ
さて、なにからはじめようか。
えーと、そうそう、二次創作の話だ。
某まおゆうに関して、二次創作的な感性でつくられたものが一次創作の顔をして売られてるのが気に入らない――とかそんな話を前に呟いたのだけれど、そもそも二次創作とは何か、みたいなところに踏み込むととてもめんどくさいのであまりやりたくはなかった。しかし、一応説明を加えたほうが良さげなところについては加えておこうと思う。
文脈。世界観。キャラクター。二次創作はそういったものを原作に頼る。委ねる事ができる。その世界観を自明とするものを――ファンを対象とするがゆえに、その辺の構築や説明をすっ飛ばすことができる。TRPGのベテラン向けリプレイにいちいちルールの説明が不要なように――クトゥルフ神話体系を知るものに旧支配者の説明が不要なように。それ故に、彼らは描きたいもの、こと、キャラクターにリソースを集中することができる。それ故に、原作に沿った流れであれ原作のカウンターとなる流れであれ、世界観の上で自由に描く事ができる。もととなる世界が盤石だからこそ、それを生かすも殺すも二次創作者の自由であり――それ故に、一から世界を構築するより低いリソースでもって一点集中のインパクトを生み出すことも可能となる。
貝木泥舟がいうところの「偽物は本物であろうとする分、本物より本物だ」といった現象もこうした状況では起こりうる。それはまあ、とても健全で素晴らしいことだと思う――が、それはあくまで原作が存在することを自明とするが故、であって。
まあ、某まおゆうが実際にどうか、ということとは余り関係がないヘイトである。気に入らないのは売り方の問題であって必ずしも作者や作品の問題ではないからだ。
しかし、まあ。それでも思う。
出来のいい二次創作は素晴らしい。僕だってそういうものは好きだし、出来の悪い二次創作なら自分だって書いてきたからそれを否定する気も毛頭ない。
しかし、それでも。
出来の悪い一から生み出した創作物は、それよりも素晴らしい――いや、素晴らしくあるべきなのだ、理想としては。
完全に一から生み出した創作など現代に於いては無論存在しない。しかし、既存のものに自分なりのフィルターをかけて、自分の世界観を持つこと――それが一番めんどくさい最初の手間なのだが――それを省いたものがはびこるのはなんというかいろいろサボりすぎじゃねーのかなーとか思ったりはするのだ。
当然ながら、自分の世界観にもあらかじめカウンターを当てておくことは必要だ。
少なくともある程度客観的な視点を、鏡を用意しておかねば、作品世界は容易に願望充足に溢れた肥溜めになる。作者が聖人君子ならそれはそれで聖人らしい願望充足の場となるだろうが――そうではない例がしばしば見受けられるのは今更言うまでもないし、何より例え聖人君子でもやっぱり肥溜めは臭いだろう。
肥溜めが増えたところで誰も――自分自身も幸せにはなれないのだから。
理想――そう、どこまでも理想だ。絵に描いた餅だ。
しかし、それでも。
書けると思ううちは書くべきだ。
それがいかに時代と、理想とかけ離れていようと。
いかに人に酷評されようと、罵倒されようと――書きたいものがあるうちは。
それがなくなればまあ死んでもいいんじゃないかなーとは思う。
幸いなことに、今のところはまだ無くなりそうにないが。
――勿論、実際に完成するかどうかは別としてだけども(だめじゃん
はずかしいことをかいてしまったが、このへんでおわる。